さて。
数ヶ月前、友達だった人と思い切って距離を置いたことがありました。
何年も仲良くさせていただいていたけれど、彼女自身いろいろと問題を抱えていて、その愚痴を聴くことに耐えられなくなったこと、他の人の噂や悪口を言ってくること、他人のプライバシーをいとも簡単に漏らす姿に、ずっと「もやもや」した感じはあった。
その「もやもや」を引きずったまま付き合っていたのは、よく顔を合わせる環境にいるので仲良くしておきたかった、というのが大きな理由だったけれど。
ある日突然、「もういいや」と心が勝手に声を上げ、それは行動に移り、まずLINEをやめました。
ご機嫌うかがいのように様子を訊いてくるメッセージは一行くらいで返信、会っても挨拶くらいにしてすぐ離れる、とにかく一緒に過ごす時間をことごとく減らした。
勢いだったとはいえ、勇気に要ることだった。
きっと変に思うだろう、他の共通の友人に相談して、私の悪口を言って、彼女にしか話していなかった大切な秘密も漏らされていくだろう、と次の行動が簡単に目に浮かぶのは、それだけ彼女のパターンを把握していたから。
正直、「どうなってもいい」と思った。
それを聴いて離れていくなら、その人もその程度の人間だ。真剣にそう思った。
私はもう、縛られずに生きていきたいんだ。
心の底からそう思った時、自分のとった行動の結末はしっかり受け止めよう、と自然に腹は決まりました。
結果。
私の人間関係は以前より広がり、私自身、晴れやかな気持ちで毎日を過ごせるようになりました。
今日はそんなお話。
自分の問題に他人を巻き込む人は、いずれ敬遠される
離れてみて分かったこと。
自分がいかに彼女の思考に振り回されていたか。
これは彼女が悪いということではなく、私自身が勝手に引きずられていた部分が多く、それだけ距離を保てていなかったということ。
距離が近すぎるとこういう問題がよく起こって、離れてみないと気づかないことが多い。
今は、どんな人とも普通に接することが出来る。
自分が接することで誰かに気を遣う必要もなく、むしろ「言いたいことがあれば好きに言っていればいい」と思っている。
呪縛からの解放みたいだけど、実際縛っていたのは私自身。
何度も考えた。
彼女と離れることで、そして彼女から嫌われることで、私にとって何かデメリットはあるのだろうか?
・・・・・。
ない。特に。言うほど。
ぞんがい、些細なことなんだと思った。人間関係なんて変わっていくもので、こういう「変化」はお互い受け入れなければいけないんだなと。
彼女のことが決して嫌いな訳ではない。
ただ、関心がなくなっただけで。
これ以上関わっていくことが苦痛であるというだけで、それは離れれば良いだけのことで、決して彼女の不幸を望んだり、彼女の評判を落とそうと画策するようなことは一切ない。
そういうことをすれば、今度は、私自身の価値が下がるのだ。
そして。
距離を置いてみて、周りが見えるようになってから私が知ったことは、彼女こそが一部の人たちからは敬遠されている存在であるということだった。
自分の問題に他の人を巻き込んでみたり、情報を集めるために色んな人に良い顔をして近づいていること、噂好きなことなど、やはり知っている人は知っていて、それこそ、「あの人には近づかない方が良い」と囁かれている事実。
そして、彼女と仲良くしていた私も、「あの人と仲が良いんだから、きっとそういう人」と周りに思われていた事実。
私が彼女から離れたのは、誰にも相談せず自発的に行ったことだったけど、やっぱり正解だったんだなぁ、と思った。かなり寂しい気持ちがして胸がぎしっと軋んだけど。
「他人は自分の鏡」
私と彼女は、「馴れ合い」のような、共に依存する関係だったのかもしれない。
愚痴を聴いては慰め、問題が起これば駆けつけ、常に彼女の「満足」のために存在するような。
私も大切にしてもらっていたと思うけど、彼女のような苦労の多い恋愛はしていないし、他人の噂など気にならないし、他人のプライバシーを誰かに漏らそうとは思わない。
いつからか、「もっと前向きな話はないのかなぁ」と思うようになっていた。そういう小さな苦痛が積み重なって、心が重たく傾いていたのかもしれない。
自分のいたらなさ、醜さを痛感したのは、
「誰かの悪口を遠慮無く話せる相手」
として彼女を選んでいたことで、そうやって気に入らない人のことを罵っていた自分を今は殴ってやりたい。
それは、「この人も言うから私も言って良いだろう」という甘えというかただの慢心であって、同じことをしている時点で、私も彼女と同じ穴のムジナなのだ。
「他人は自分の鏡」だと実感するのは、悪口など言わない人と付き合っていれば自分も言おうとは思わないだろうし、そういう思考にもならないだろうし、相手とどこで「同調」するかによって、自分の価値も決まるということ。
私は私の意思で、彼女と醜い部分を共有してしまっていた。
言わずに済むことだってたくさんあったはずなのに、一度口にしてしまえば、その事実は消えないし、こうやって後で苦しむことになる。
彼女と離れて、私は他人ではなく自分自身のことをきちんと話せる友人たちと過ごせるようになった。以前よりスムーズに。自然と。
そうすると、会話をする人たちが増えた。元より自分から色んな人に挨拶して話しかけていく方ではあったけれど、相手のリアクションを素直に受け止めて話の幅が広がったと思う。
裏を返せば、「私自身が目の前の人の鏡」であるということ。
これに気がつくことが出来たのは、大きな幸せだったと今は思う。
彼女は、私以外にも離れていった友人がいる。恐らく同じ理由だと思う。
離れる、という決断は、とても寂しい。
寂しいし苦しいけど、私は自分が大事だったからこうするしかなかった。心が自然とそう選択した。
もちろん、良いところもたくさんあって、好きだなぁと思う部分がある。
それ以上に悪い部分に触れることが多くなって、私はパンクしてしまった。
私が自分から離れていったことを、彼女がどう思っているかは分からない。
それすら、時間が経てば、どうでも良いと思う。
それは彼女の問題であって、私の問題ではないから。
人の気持ちは自分で決められない。私のことをどう思うかは、その人の問題に過ぎない。
ただ、自分で自分を縛っていた何かから解放されて、私は自由になった。
良い悪いでは片付けられない人間関係だけど、自由であるためには必要な選択をする時もある、と思った話。
【こんな記事もあるよ】
■ 「いつも明るくて誰にでも笑顔で接する人」が決して好かれない理由
■「自分の幸せに責任が持てるのは自分だけ」と肚をくくったら自らを愛す勇気が出る
同感です!
私の場合、嫌いになったり嫌われたりすることを無意識に恐れていたんです。そして悪口を聞いてあげても相手はそれを私が楽しんでいるって思ってるんだと気付き、危険なので距離を置きました。本人は悪口を言ってる気など更々無いのです。
落ち着いて周りを見渡すと尊敬すべき人は沢山居て、沢山の人と距離を保ちつつ交流することがいいのだと悟りました。自分を客観的に省みて環境を選ぶことが、以外と出来ていなかっこと深く反省しました。
松下さま
コメントありがとうございます!
共感していただけて嬉しいです。
私も、嫌われることを無意識に恐れていました。
気がつくことが出来て良かったけど、そうでなかったらいつまでも相手の良いように扱われていたんだろうなぁと思うと、そっちの方が怖いですよね。
>本人は悪口を言ってる気など更々無いのです。
そうなんです、意識せずに言えることが一番怖いと思う。
でも、だからこそ敬遠されてしまうんでしょうね。やっぱり悪口って広がってしまうので。
それがその人の人間性なんだと思います。
離れてみて、私も客観的に自分を見ることを思い出しました。
環境を自分で選ぶことって大切なんだと思います。
良い意味で距離を置きながら、尊敬できる人たちとお付き合いしていきたいですね。
読ませていただきました。
苦痛な人たちを思い出しました。
苦痛でした。そのひとの話を聞いてると悲しくて苦しくて我慢して。幼い頃は信じこんだりしました。
小さなnoをいうのが大事とよく聞くけれど(全面noにならないために)、同じ環境じゃなくなったり、彼女彼らがあらたな依存先?を見つけたようなら縁を切れました。
相談した人から頂いたアドバイスでは距離感がお互い思ってるものと違うのではということでした。
私は、幼少期の環境からずっと男女問わずわいわいが好きなのですが、それを出来ないひとに悪く言えばターゲットに思い込まれることが多かったです。
悪口たまには言いたくなりますよ!そりゃー腹立つこともありますよ!
断りかた
スルー(態度)
無関心(ある意味ここはがまん)
逃げる
yes(聞くには聞いたよ的な)
but(わたしは!要らない的な、わたしは!それは不可能的な)
no
こんな感じらしいです。
どーしてもばっさりいけないような時や、回りの目がある時これを習得しようとやってます。
ずっと彼らの思い込みの私でいるのは限界でした。
練習中です。
わたしも結果的に絶縁しました。
彼ら彼女らは利用できなかったら私は必要なかったみたい。
ずっと見捨てていーのかなって思ってきたけど。
あっちに今までの不満の千分の1、いや無限大数分の3位をいったら無茶苦茶言われて、切られました。
笑える、わたし。
ユキさま
コメントありがとうございます!<(_ _)>
返信が遅れてしまい、誠に申し訳ございません(´;ω;`)
「彼ら彼女らは利用できなかったら私は必要なかったみたい。」
コレですよね。私も実感しました。
結局、他人とのつながりを「自分にとってメリットがあるかないか」でしか判断できないような人には、そんな付き合いしか残らないんだと思います。
利用するかされるかしか、価値を見いだせないつながりなら、私は要りません。
その気持ちをはっきり表明できたこと、素晴らしいと思います。
今はつらくても、時間が経てば正しい選択だったと必ず実感できる瞬間があります。私は今でも自分の言動に納得しています。
>yes(聞くには聞いたよ的な)
but(わたしは!要らない的な、わたしは!それは不可能的な)
no
どんな形であれ、自分はどう感じたかを出すことは大事ですよねぇ。黙ってると「お前も同じ気持ちなんだろ」って思われるし。
noまではっきり拒絶する場面は少ないかもしれませんが、butは私は使うようになりました。
「へー、そうなんだ。でも私はこうかなー」
という軽い感じですが、「同調しない」意思だけは見せています。
どんなコミュニティ、つながりでも、自分の立ち位置を責任持って守ること。
これが大人の作法かなと。
読んでいただき、本当にありがとうございました。
コメントいただけて嬉しいですヾ(=^▽^=)ノ
これからも、どうぞよろしくお願いします!
よく似てる人との間に全く同じ問題がありました。
彼女も噂好き、自分と合わない人は秘密を周りにばらし、そのコミュニティから嫌いな人を排除して被害者ぶる人でした。そして見かけは明るくにぎやかな人なので、私も彼女と一緒に行動することが楽しく、彼女に注意もできずにコミニュティ内の噂話や悪口を聞いていました。(マルチの勧誘もされていました)
今にして思えばそんな居場所でも欲しかったので不毛な会話や関係にしがみつき依存していました。
家庭の事情でそのコミュニティから距離を置いたとき初めてその馬鹿らしさが分かりコミュニティを辞めました。
その時には必要だった(と思い込んでた)居場所の中心が彼女だったので、コミュニティを辞めたあとすぐ彼女からSNSのフォローや友達を解除され絶縁されました。(恐らく秘密の全てを言いふらされているだろう)コミュニティのある場所には行かれなくなってしまった感がありモヤモヤしていましたが、記事を読んでやっぱり間違っていなかったんだと心が晴れました。ありがとうございます。
います。います。こう言う人
職場などの狭い空間の付き合いになると
ヒロさんが書かれているような似たような関係になりますし
何気ない会話や態度に感じる違和感、モヤモヤに悩ませれて非常にストレスが溜まっていきます。
(それに反比例するように相手は愉快そうになっていく、、、)
全く「悪気なく」一種の対人操作をしてくるわけで、自分の経験では
「聞いてもいないのに」よく知らないその場にいない人の人物評、悪口を語りだしたら
危険信号だと思います。
(自分が人間関係で有利に働くように「イメージの刷り込み」をしてきてるわけです。)
おっしゃる様に相手との距離の取り方を誤ると被害を受けますので
自戒しつつ人間関係は馴れ合いにならない様に気を付けたいですね。