依存する人って、自分に自信がないんだよね。
だから感情を他者に向ける。預ける。
依存している人から支配や抑圧を受けている、というケースも多いけど、「みずから依存することを望む」人も男女問わずいて、あえて”そうなる”ようにしていることもある。
自分に意識を向けると、空虚を感じる。
「その人からの刺激がないと満たされない自分」がいて、愛される、求められる自分に価値を覚える。
離れていると、一緒にいるときのことを思い出して余韻に浸り、「今度会ったら」と次を考え、甘い言葉と笑顔で自分に触れてくれる相手の姿を思いふけって過ごすのだ。
一方で、相手の態度に引っ掛かりを覚えると今度は不安ばかりが募り、「もし愛情がなくなっていたら」「嫌われていたら」と、”見捨てられた自分”に感じる惨めさもすごい勢いで膨らんでいく。
で、依存体質の人は相手のフェイスブックやインスタグラムの投稿などをチェックする。
探すのは「自分について言及しているもの」、もしくは「別の人に愛情が向いているとわかるもの」。
”におわせ”でもいい、とにかく相手が「いまどんな状態で誰を好きか」がわかるものを執拗に、”目を皿のようにして”探す。
愛されている悦びで心がふわふわしているときと、惨めさを抱えてスマートフォンの画面を睨みつけるときと、感情の針は正反対に振り切れるのを見る。
とにかく「相手にどう思われているか」が気になって仕方ないのだ。
それがたとえもう好かれていない現実を知ることになっても、正面から尋ねる勇気がないからSNSに痕跡を探す。
知ったあとでどうするかまでは考える余裕がなく、というか「どうするかは知ったあとで決める」。
どこまでも感情の方向を握るのは相手であり、自分に決定権を与えない。
それが依存体質の人の愛し方であり、ほんのわずかでも「これって自分のことかも」と感じるものがあれば疑うことなく信じてしまう。自分にあてられた言葉に違いないと。
相手には何の確認もせず、だ。
この強迫観念のような思い込みの強さも依存体質の人が持つ特徴で、自分の世界で相手の気持ちを決定づける。
真実を聞けないのは、自信がないからだ。
もし愛されていないとわかったとき、それでも相手を好きと言えるかどうか。
そのとき自分はどうなるのか。
「愛されない自分」を受け入れられないから、動きたくない。
本当に相手が愛情を失っていれば、いずれ関係は終わる。
その恐怖にも怯えるが、自分から確認する勇気がない。
確かめてしまって、「さよなら」と言われたら立ち直れない。
だから、相手から切り出されて被害者になる方がいい、とかたくなに自分からは動かない。
だからSNSなどでこっそりと相手の状態を探る自分に違和感がない。
「感情をすべて相手に委ねる」のって、本当に怖いなと思う。
私も昔はひどい依存体質で、愛されないと自分に価値はないと本気で思っていたからよくわかる。
そんな自分こそ、相手から見れば愛しづらいのだ。
こちらの一挙一動に敏感になって、知らないところであれこれとかぎまわり、「愛している証拠を差し出せ」と圧をかける私など、重たいだけだろう。
そこには信頼がない。
愛情はあっても一方通行、「不安にさせたこと」を責められても、いちいち応えていたらキリがないのだ。
しかも、依存体質の人は(昔の私は)「あなたの言葉で傷つきました」「悲しんでいます」とアピールすることを忘れない。
信用を欠くようなことをしておいて、そんな自分は棚上げして「私の存在をないがしろにする」と一方的に悪者にされたら、いい気はしなくて当たり前なのだ。
依存の怖さは、依存される側にとってはこうやって「相手の感情が自分の振る舞い一つで決まる」ことにもある。
常に安心していられるよう、先回りしないといけない恋愛なんて幸せなはずがない。
そして依存している側は、無意識に「一瞬たりとも不安にさせるな」を押し付ける。圧力をかける。暗い雰囲気で迫る。
それを叶えてくれるのが愛情だと錯覚する。
正面から確認する勇気はないくせに、相手の本心をきちんと聞く余裕はないくせに、斜めから「早くこちらを安心させろ」と斬り込んでくるのだ。
そして、依存体質の人が一番落胆するのは
「どこにも自分の面影がない」
ことだ。
何を見てもどれだけ探っても、自分らしきことに触れているものがない。
相手のなかに自分はいないと目の当たりにすることこそ、依存体質の人にとっては恐怖になる。
「関心を持たれていない」事実ほど、絶望するのだ。
「相手がにおわせでも自分について言及していない」とき、不安をぶつけるきっかけがないし「可哀想な自分」をアピールすることもできず、いつまでも鬱々とした気持ちで過ごすことになる。
だって、黙って投稿を見ているなど、言えないからだ。
信頼していないから。
相手も。自分も。
「出てこない自分」について責めることなど、普通はできない。
依存体質の人が抱える強迫観念は、いっそ「憎まれないと困る」とも言える。
絶望と混乱を救うのは自分ではなく相手の役目、愛情が向かない(と思い込んでいる)現実が変わるなら、憎悪でも嫌悪でもいい。
実際にそこまで追い詰められる人はいる。
こてんぱんに誰かをこきおろした言葉でも、「もしかして自分のことかも」と思い当たればそれが依存体質の人にとっては唯一の安堵になる。
どんな感情でもいい、相手のなかに自分を見つけることのみが、存在意義になるのだ。
だから、恋人でも中途半端な関係の人でも、依存されているなと思ったら「いっさい触れない」のが正解だったりする。
下手に存在を示すとそれが執着を加速させる。
「なかにいる」ことを見せるとそれが相手は歪んだ安心を育てる。
触れないことは拒否や拒絶ではない。
「私の日常はあなたを中心には回っていませんよ」と静かに伝えることなのだ。
SNSなどではまったく出さず、リアルで連絡をとることができればそちらのほうが健全で、”におわせ”などもいい結果を生まないのはたくさん見てきた。
「目の前にいないとき」「態度に引っ掛かりを覚えたとき」ほど、依存体質の人は暴走すると考えるべきで、”ああまたチェックしているんだろうな”と想像がつくときは何も言わないことが自分を守る手段、距離感を保つことになる。
一方で、思い込みが激しい依存体質の人はまったく違う人についてでも一方的に「これは自分のことに違いない」と決めてかかるので、こちらはストレートな言及を避けてにおわせであっても、別の人を話題にするのは難しいなと思う。
”不安を現実にするものを目を皿のようにして探す”依存体質の人の視野の狭さは、こちらが思う以上に切羽詰まっている。
何でもない他人のことをつぶやいただけでも、「あなたの投稿を読みました」「傷つきました」と突然言ってきたりするので、そういうときは「一刻も早く(その言葉を否定して)こちらを安心させるべき」の圧はかわしてやんわりと違う人であることだけ伝えればいいと思う。
依存の圧に向き合うほどに、相手の執着は増す。
「こうすればこの人は相手をしてくれる」と学習すれば、ネガティブなかかわり方をしていることに相手は気づかないまま、「愛して」「安心させて」と迫ることがやめられなくなる。
はっきり言って、依存体質の人と付き合うには相当の精神力が必要で、こちらは自立していることが絶対の条件になると思っている。
「そのやり方には付き合わない」ことを、こちらははっきりと示す必要がある。
おかしな思い込みでアピールしてくる「可哀想な自分」は受け止めないこと、ひねくれて愛情を引き出そうとする態度はかわすこと。
そもそも自分の気持ちは自分のもので、「すべてがあなたに向かっているわけではない」「何を綴ろうとこちらの自由」「いちいちあなたの感情を忖度する必要はない」ことを忘れてはならない。
そのうえで、前向きな言葉や伝え方には誠意を持って応えることを心がければ、本当に愛情があるならば相手も変わらざるをえない。
「このやり方でしか通用しない」と学習するしかない。
本当にそれが愛情ならばね。
そして、「依存心から生まれるネガな刺激によってのみ愛されていると感じる自分」に違和感を持てばね。
依存は、する側はどこまでも全感情を振ってくる。
その負担や重圧はされる側が受けるものではなく、どこまでもする側の問題でしかない。
この線引きを忘れないことが、精神をまともに、自立したままで愛する姿勢を忘れないことかな、と。
「私とあなたは違う」と伝えることは、拒絶ではなくお互いに自分の世界を守ることだと私は思う。
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