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いろいろ聞いていて、「やめとけばいいのになあ」と思うことに

「関係が終わった人のSNSをチェックする」

というものがある。

ツイッターやインスタグラム、フェイスブックなどをわざわざ見に行ってその人の状態を確認するのって、未練が募るだけなんだよね。

もちろん見る権利はあるけれど、知ってどうしたいのだろうと思う。

これ、期待なんだよね。

「この人にとっていま自分はどう思われているのか」を知りたいからチェックするんでしょ。

先日、30代の友人とこの話をしていて

「それって期待じゃなくて不安じゃないの?」

と言われたけど、本当に不安なら見に行けないよ。怖いから。

自分のことをボロクソに書かれていたらどうするの、立ち直れないでしょ。

「やらかした人」ほど「書かれるかもしれない」って不安を抱きがちだけど、それを確認してどうするの? と思う。

あえて”怒り”を持ちたくて見に行く人も実際にいる。

書かれるに違いないと思い、チェックして「ほらやっぱり」を掴み、次に「書かれた自分は被害者」を意識するのだ。

その人が自分の名前を出して何か言及していた、住所など個人情報が特定される状態で悪口を書いていたとかなら問題になるけど、そうでなくても「これは自分のことに違いない」と思えるものを”目を皿のようにして”探す。

自分にしかわからない書き方をされているってだけでも、全神経が「否定された」「拒絶された」「間違った認識を持たれた」に支配され、相手への怒りを爆発させる。

こういう人が一番おそれているのは「無関心」で、忘れられるのが嫌だから無意識にそれを確認したがるのだと思う。

本当に「二度と関わらない」と思うのなら、状態を知りたい、状況を把握しておりたいなどと思わないだろう。

その人が自分をどう思っているかなど、関心がなければ知る必要はない。

たとえば数年経って「今どうしているのかな」と覗きに行くのはわかるけどね。

見なければいいのに、相手にも自分と同じく表現の自由があるのに、それを忘れてひたすら「書いたお前が悪い」になる。

これが未練じゃなくて何なのか。

忘れたくないのは自分であって、無関心じゃないからわざわざ知ろうとするのであって、怒りを抱えることでその人を思う気持ちに”理由”をつけるのだ。

「書かれた被害者」になれば、ずっと恨んでおけるしSNSをチェックする行動も正当化できるからだ。

こんな人の期待は、相手のなかに存在する自分を見ることなんだろうなと思う。

自信がないんだろうね、「それ以外」で存在できる可能性がわからないから。

たとえば自分について”におわせ”があっても、「この人はこう思ったのだな」で置ける強さがない。

それが自分の手にした結末と違うことにこだわり、「お前は間違っている」と声高に責めないと気がすまないのは、境界線が引けていないからさ。

「傷つけられた自分は被害者」を表に出して書いた側にケチをつけるのは、すなわちその人が自分にとってどれほど大きな存在かって示すことなんだよ。

これが何かの権威で明らかに間違った情報を出しているなら問題になるけど、個人間ならあくまで関係は対等なのだ。

「アホやなこいつ」と鼻で笑ってすませることができないのは、その人から見た自分に大きな価値を置いてるってことさ。

相手には相手の考え方・価値観がある。

自分のそれを尊重しろと言うのなら、相手についても当然に配慮しないと、本当に「ただ気に食わないから攻撃しただけ」になる。

書いた相手が憎い、ムカつく、そう思うならひたすら無視して無関心になるのが最強の”勝ち”なのだ。

あなたはそこまでして相手にいったい何を要求したいの?、と。

 

先日はある人と「読解力のない人」について話したんだけど、自分について言及されるのを嫌がる人ほど、相手の書いたものをしっかり読んでいない。

恐怖や怒りに駆られると、表面上の言葉ばかり脳が拾ってしまい、そこに示されている内容の本質に目がいかないのだ。

「嫌われているに違いない」という色眼鏡で読むから、どんな表現もネガティブに見えるしいいことを書かれていても拒絶する。受け止めない。

読まなければいいのに、「読まない選択肢」があるのに、それを忘れてひたすらに書いた側を責めることで溜飲を下げようとする。

SNSでよく見る光景だよね。

書いた側にも、もちろん誰もが目にするインターネットに言葉を出す責任がある。

それが明らかに不利益を被ると判断できる個人攻撃ならアウトだけど、そうでないなら、単純に「私(俺)はこう思った」でしかないのなら、口出し無用なのだ。

その現実を改めて確認した。

私は、過去になった人の痕跡をネットに探さない。

「私をどう思っているか」に興味がない。

それを知ったところで、私自身がその人に関わろうと思わなければ「そうなのね」で終わる。

その人にどう思われていようとそれは相手の自由であり、私には手が出せない領域であり、気にするだけ無意味なのだ。

見に行くとかえって自分の関心の高さを自覚するので、すべてを遮断して感情を断つ。

憎まれている自分を知ろうとする弱い心が衝動を生み、「互いが不快になること」を思いつき、自分の存在をアピールする最悪な選択をする。

何より怖いのがこれで、相手を尊重することを忘れ、自分をないがしろにする結果しか見たことがない。

怒りも嫌悪も絶望も葛藤も、それぞれの課題であって解消する義務は相手にはないのだ。

境界線を引けない人は、いつまでも相手のSNSを見に行ってしまう人は、「それをすることで自分はどうなりたいのか」を考えてほしいと思う。

※ 個人間のことであり、権威や専門家に対する批判はまた別の話です。

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1 個のコメント

  • 当事者だけの関係で成り立ち、そこを切れば絶てる関係なら概ね同意です。

    が、例えば共通コミュニティで全く違うことを陰で吹聴され、その人自身と関わっていなくてもその情報に流された第三者から実際に二次被害を被っていた場合は「そうなのね」と流せないケースもあります。

    その場合、明らかに第三者の態度が変わるので何を言ったのか当事者のSNSが気になる時があります。
    ちょっと今回の記事は取りようによっては誤解を招きかねないなと思うので、個人的には不快でした。

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