好きな人とうまくいかないとわかり、去ることを決め、それを相手に伝える。
そのときに、「あなたから嫌われている自分」を理由にする人たちがいる。
先日書いた「『穏やかでいたい』と願う自分は相手を置き去りにしても許される、という勘違い」に出てくる女性のように、相手が自分に向ける気持ちを何の確認もせず一方的に「嫌われたんだ」と決めつけ、
「愛情を向けることを許されない自分」
を作り上げるのだ。
これ、相手はうんざりするんだよね。
まるでこちらが悪者かのような、それこそ「加害者」の立場がこの人のなかで確立していることに、もう心底疲れる。
いっさい話し合うことをせず、向き合う姿勢を持たず、「愛されていない理由」を必死に探し、少しでもこれだと思うものがあれば
「はい、自分が嫌われていることはわかりました」
と早合点を押し付ける。
思い込むのは構わないが、どうしてそれをわざわざ相手に伝える必要があるのか。
いろいろ聞いていて思うんだけど、こんな自分を相手に見せる人の本心(おそらく当人は絶対に認めない)は、
「自分の受け取り方は間違っていると訂正してほしい」
「そうじゃないと教えてほしい」
「不安にさせてごめんと謝ってほしい」
「愛していると伝えてほしい」
これじゃないかな、と思う。
だってね、好きな人から嫌われているって、それは悲しいでしょ。
ショックでしょ。
恐怖でしょ。
逃げ出したくてたまらないでしょ。
「二度と関わりたくない」って思うでしょ。
「嫌われてしまった」と実感した相手に、”それを知った自分”を伝える意味がどこにある。
しかも、
「だからこちらからは連絡しません」
って、あえて「泣く泣く諦めた自分」まで見せるんだよ。
これね、
「こちらからは連絡しません」=「あなたからの連絡を待っています」
じゃないの?
その”連絡”には「謝罪」が含まれる。
「傷つけて悪かった」というこちらの気持ちが前提の連絡だ。
こんな人たちは、「だからあなたは私の誤解を解く義務がある」っていう思い込みを同時に抱えているんじゃないか。
もっと言えば、
「愛していると伝えるべき」
っていうのが本心じゃないのか。
当人は決して認めないだろうがね。
一度こんな話を「彼女いない歴=年齢」の40代男性としたことがあるが、ものすごくキレられた。
「勝手に俺の気持ちを決めつけるな」
「俺のことが好きじゃないのがその人の事実なんでしょ? だったらもうそれでいいじゃない」
「もう終わりにしたいんだよ」
一方的に愛情をなくされたと思い込みながら、その相手や第三者が自分の気持ちを推測することは許さない。
自分の感情こそ正義であり、”それ以外は断じて認めない”のがこの男性の場合は顕著だった。
「これが本心なんじゃないの?」と指摘されるのは屈辱かもしれないが、そう思われる態度をとっている自分についてはいっさい頭にないんだよね。
そもそも、どうしてそこで怒りが湧くのか。
怒るのは「理解されていないこと」に対してなのだろうが、冷静な頭であれば、自分が卑屈になっている可能性を思いつく。
抱えきれない痛みで心は飽和状態になっており、それを慰撫する言葉以外は受け付けられないのだろうな、と感じた。
確かに、好きな人から嫌われていると思い込むのは、つらいもんね。
それが本当は誤解であっても、「こう思わせた相手が悪い」で身を固めないと、アイデンティティが崩壊してしまう。
「好きか嫌いか」、まさに白黒つける結末しか、こういう人は望んでいない。
少しでも不具合や不協和音を感じると、”自分が思う理想の状態”から相手が外れると、「傷つける敵」になるのだ。
ほんの一瞬で、その針は反対側に振りきれる。
極端な思考になるのは、曖昧さがもたらす不安(本当に愛されていない現実)に耐えられないからなんだろうね。
だから相手と向き合えない。
もう、そんなエネルギーは残っていない。
相手の言葉や態度が、不安を現実にしてしまったら?
対峙したところで、自分の期待通りの言葉が返ってこなければ改めて深い傷を受けることになる。
それが怖い。
「こう言われるだろう」「こんな言葉が返ってくるはずだ」
そんな妄想がまだ相手を愛している気持ちをねじ伏せ、「愛情を向けることを許されない自分」を誕生させる。
ものすごい葛藤だよね。苦しいと思う。
そうなってしまうのは、その人なりの背景があるからで、「どうしようもない」のもまた、現実だ。
こういうとき、相手はどうすればいいのか。
「嫌ってないよ、それは誤解だよ」と言ってあげるのも、もちろん一つの解決だと思う。
駄々っ子をあやすように、「あなたを大切に思っているよ」と改めて伝えてあげれば、その人は「間違っていなかった自分」を見て溜飲を下げるだろう。
ただし、それをするなら相手の背景を受け入れる覚悟が必要だ。
「そうなってしまう弱さを抱えるその人」と、「嫌ったと誤解させた悪者である自分」を同時に飲み込む強さがいる。
それは強さではなく、依存だろうと個人的には思うけれど、それでも腹をくくるしかない。
依存ではなく対等な関係を望むなら、
「どうしてそう思ったのか」
から話し合っていかなくちゃいけない。
どうしても、その人に本心を話してもらう=心を開いてもらう必要がある。
そう思わせた自分にも非があるなら謝罪するべきだし、本当にその人が一方的に思い込んだだけなら、自分の気持ちを正しく理解してもらわないと、今後もいい関係は続けられない。
だが、この向き合いこそを相手が避けたがっているので、たいていはうまくいかない現実を見てきた。
「嫌われるべき自分」で終わりたがる人たちが抱える絶望は、
「愛されているか、そうでないか」
の結末だけで自分の価値が決まってしまう恐怖。
相手の気持ちも、悲しみも苦しみも、そんなものはどうでも良くて、とにかく「”自分が”愛されているかどうか」しか、関心はない。
愛されていると実感すること、「追いかけてきてくれたんだ」という安堵を手に入れること、そこにしか相手は存在しない。
だから、誤解させるようなことをして悪かったなと相手は思っても、それを伝えようとすれば
「もう好きじゃないんでしょ?」
「だからあんなことができるんでしょ?」
「好きだったらあんなこと言わないはず」
「もう終わりにしたい」
と話し合いではなくいきなり結論を求められるから、どんどん疲弊していくのだ。
応えると依存が深まる。
その人は「許される自分」をこれからも押し付けるだろうし、こちらも「苦しめないように気遣う」立場から逃れられない。
もう、立派な共依存だよね。
だから、「放置」も自分のために選ぶ道かもな、と思うときもある。
それまでの関わり方から、相手の白黒思考がはっきりわかるときは、つまりその人の望む言葉が「愛してる」以外にないと想像がつくなら、自分が考える話し合いはできない。
それなら、何もせずに相手が落ち着くことを待つのも、気持ちのあり方かもしれない。
そのままフェードアウトになっても、それは仕方ない。相手の気持ちはコントロールできない。
放置されることでまたその人は傷つくかもしれない。
でも、自分なりに誠意を持って応えたい気持ちは届かない。
それなら、終わりになったとしても、それもふたりの違いだと受け入れるしかない。
腹をくくるべきなのは、その点かもしれない。
相手の背景を考え、配慮し、そこを話し合う姿勢を持つのも愛情だ。
だが、いくら思いやりを持って接したくても、その人がそれを避けた白黒思考でしかこちらを見ないのなら、尊重したい気持ちは届かないのだ。
だから、「放置」でその人が気づいてくれるのを待つ。
本心を打ち明けてくれるのを。
そんな瞬間はこない可能性が高くても、自分のあり方を間違えないことこそ肝心だと、「嫌われるべき自分」で終わりたがる人の絶望を見たときは思う。
自分にだって背景はある。
向き合うことにエネルギーが必要なのは、お互いさまなのだ。
そこを、考えられるかどうか。
無理をしてまでその人の依存に付き合うことが、本当に自分を幸せにするのか。
「適切な距離を持つ」なんて本当に本当に難しくて、それができれば何の苦労もしないのだけど、つまずいたときこそ、思い出すべきだ。
自分の非は正す姿勢と同時に、その人のあり方をひとつの状態として置いておくのもまた、強さだと。
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