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「誰も自分を幸せになどしてくれない」。

それは真理であって、絶望でも自暴自棄でもない。

立派な希望。

だって、幸せだと感じるのは自分自身でしょう?

誰かに「幸せだと感じろ」って言われても無理やお?

それは自然と自分の中で湧いてくる感情であって、決して他人に強制されたりできないもの。

「誰も自分を幸せになどしてくれない」。

それは当たり前のこと。

例えば、結婚。

「幸せにして欲しい」と思うのは誰でも普通。私も夫と結婚する時は思うた。

でもよ。

それは相手にとって義務じゃない。結婚したから幸せにしなくちゃいけないなんて思いよったら、いつか疲弊するよ。

結婚という選択肢を選んだのは自分。結婚して幸せになりたいならその責任は自分にある。

もちろん、相手のために頑張るのは間違いじゃない。ていうか普通はそうなんだし。幸せにしたい誰かのために頑張るっていうのは素敵なことやと思う。

でもそれはね、「幸せであるべき」なのはね、他人じゃなくて自分ながって。

頑張る自分を愛していなければ、それは嘘になる。

「幸せであるべき」にとらわれて、相手のことしか考えていなかったら、それは窮屈な愛になる。

よく言う、「見返りのない愛」っていうのは、「それをすることで自分が満足できる」から。幸せを感じることができるから。相手のリアクションに委ねないから。

「ほら、こんなに頑張ってるんだからそっちもお返しをちょうだいよ」って、相手に押し付けないから。

「見返りのない愛」っていうのは、「自分を愛している」ってこと。

何もなくても、愛する気持ちから発生するいろいろな事柄を、ちゃんと自分の中で消化できる。昇華できる。それが自分を愛するってこと。

「自分は幸せであるべき」っていう強迫観念は、相手に押し付けること、同時に相手から奪うことにもなる。

どうして幸せにしてくれないの。どうして愛してくれないの。どうして私は不幸なの。こんなに頑張ってるのに。

・・・それはね、自分が自分の幸せに責任を持ってないきながって。

お前の幸せなど誰も責任を負わない。自分でちゃんと幸せになれるから。自分の幸せに責任を持てるのは自分しかいない。

相手はお前のために存在しているんじゃない。

同時にお前も相手の幸せに責任を持つ必要はない。それは相手の問題。

幸せと感じて欲しくても、それは強制できない。逆に言えば、自分も無理に思い込まなくてもいい。

だから。

「誰も自分を幸せになどしてくれない」

お互いが対等な関係でいるために。

依存したり、縛ったり、奪おうとしないために。自分も奪われないために。

それは希望。

「自分の幸せは自分で責任を持つ」と肚をくくれば、目の前の相手に過度に期待することもないし、自分の行動に自分で意味を与えることができるよ。

自立していることはどんな人間関係においても必要だけど、結局ね、他者から認められることが一番分かりやすくて心が安定するからね、どうしても求めちゃうんだよね。

「ありがとう」って言われたいじゃない。「あなたのおかげ」って言われたら嬉しいじゃない。

自分には価値があるって思えるじゃない。

でもそれってよ、自分の幸せを相手に任せるってことだからね。怖いことでもある。

相手のためを思ってしてあげたけど何もリアクションがなくて、カチンときて、やってあげて損したなぁとか後悔して。バカみたいとか自分を恨んで。

私って存在する価値ないのかなぁって落ち込んで。

すれ違った時、裏切られた時、手酷いショックを受けた時、憎悪に苦しむことになる。愛情と憎悪は紙一重。表裏一体。

でもね。

本当に心から相手のためを思って何かしてあげた時って、きっと何も思わんがって。

「自分偉かったな」とか「頑張ったな」とか「自分ってすごい」とか、それって全部相手からの賞賛を期待してるから思うことだからね。

私は夫に毎朝お弁当を作るけど、頑張ったなぁって思う時もあるけど(矛盾)、夫から「ありがとう」と言われなくても、別に気にしない。

お弁当を作ることは、大げさに言えば義務じゃない。私が自主的にやっていること。

作りたいから作る。これだけ。

だから、毎日夫が空っぽのお弁当箱をさげて帰ってきてくれるだけで嬉しい。食べる時間があって良かった、全部食べられて良かった、無事で良かった。

毎日のことやきね。いちいち感謝だの言っていられない。そんなの望んでない。ただ美味しく食べてくれればいい。

疲れている時は夫の好きな晩ごはんを用意すること。洗濯は夫の好きな香りの柔軟剤を使うこと。

こういう些細な積み重ねは、やりたくてやっている自分を認めているから楽にできる。やっていることに幸せを感じるから苦にならない。

本当に相手のためを思って何かをする時、たいして思うことはない。

通じていない時もある。届かなかったこともある。それでも、相手を責めるのは間違っている、と思う。

まぁちくりと一言刺してやればね、溜飲も下がるけんど。その程度のもん。

私の中には、

「誰も自分を幸せになどしてくれない」

という希望がある。

自分の幸せに責任を持てるのは自分だけだと、いつか肚をくくってから、誰かに幸せを委ねるのはやめた。

誰かのための行動は全部自分のためなんだと、自然とそう思えるようになってから、私は私を愛する勇気を持てるようになった。

自分の価値は自分で決めることができる。

むしろ、自分で自分を愛せない人間が誰かに愛されるはずがない。これも真理だと思う。

あと、自分で自分を愛した分しか他人からも愛されないって思う時もあるなぁ。

「自分大好き!」って脳天気に自分の中で世界を回していてもかまんがよ。他人に迷惑をかけないなら。こんな私を認めろって自分だけの価値観を他人に強制しないなら。認めない人を攻撃しないなら。

そうじゃなくて、「こんな自分すごい、もっと周りから賞賛されてもいいはず」ってアホみたいな自己愛はさ、結局承認欲求に流れていくからね、それは違うと思うけんどね。

自分を愛せない人間はね、他人からの愛情にも気づかないんだよ。気づいても受け取ることができないんだよ。受け取ることが怖いから。受け取る自分に自信がないから。これって立派な不幸だよ。

愛情に応えることは怖い。責任が生じるから怖い。でもその「責任」って、相手を幸せにしなくちゃいけないって義務感なんじゃないの?

相手の幸せに責任を持つことなんてできないよ。自分ができるのは、ただ愛することだけだよ。そこから生じるいろんな事柄を受け入れることだけだよ。

逆に、それを押し付けるような人、「幸せにしてね」って全部丸投げしてくるような人間はね、いずれ魅力がなくなって付き合っていけなくなるよ。

自分に対しても他者に対しても、愛情はごまかせない。

だから、

「誰も自分を幸せになどしてくれない」。

自分の幸せに責任を持てるのは自分だけなんだと肚をくくったら、あとは自分を愛していけばいいのさ。

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2 件のコメント

  • 優しさを受け取ろうとしている、欲しがっている自分がキモいと感じる。
    かおりさん助けて~( TДT)

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