赤紙を受け取り、「軍人」としてお国のために戦うことを使命とされた久蔵と、女として銃後を守ることがお国への奉公になるとされるシゲ子。
「戦争」によって翻弄される夫婦の、哀しい結末。
ベルリン国際映画祭銀熊賞で女優賞を受賞した寺島しのぶ、初めてきちんと作品を観たけど、確かに鬼気迫る演技。
嫌々えっちに応じる姿とか、澄ました顔で久蔵を乗せたリヤカーを引く姿とか、池のほとりで呆然と座り込む姿とか。
妻として、女として、国へ奉公しなければならないというがんじがらめの現実の中で、久蔵の姿はあまりにも受け入れ難く、それでも生きている限り、介抱しなければならないというジレンマが生々しかった。
でも、赤紙が来る前の夫は毎日体を求め、暴力を振るうような人間で。「子どもも産めない石女が」って蔑まれて。
いっそ、足が一本なくなったとか、片目が見えなくなったとかの方が良かったに違いない。
「何でこんな姿で帰ってきたの」
という憤りがほんとに悲しい。
正に「芋虫」のように四肢が切断され、顔は醜く焼けただれ、そんな夫を馬鹿にすることも出来ないシゲ子の弱さが人間らしい。
ストレスを発散するために、無理やり夫に軍服を着せ、勲章を胸にさし、リヤカーに乗せて村を歩く。皆が頭を下げる。
・・・夫にじゃない、「銃後を守る妻の鑑だ」と、自分が讃えられる。
それだけのために。
きっと、シゲ子のカタルシスはそこにしかなかった。
夫は憎いが、その存在のおかげで自分はいい目に遭う。どんな復讐より、この時間だけがシゲ子を人間らしくしていたんだと思う。
久蔵も可哀相といえば可哀相なんだけど、こいつ戦犯なんだよねぇ。戦場で女を犯しまくって、何が「軍神」なんだと。
それでも、生きて帰ってくれば、どんな姿であっても周りからはちやほやされる。お米も卵も、「軍神」だからこそもらえる。
実際、戦場で何があったかなんて、村人たちが知るはずないのだから。村にとっては、勲章と新聞記事だけが、久蔵の軍人としての姿。
でも、最初は誇りだったはずの勲章も、新聞記事も、現実の地獄の中では何の役にもたたない。慰めにすらならない。
恐怖を知ったから。
自分が愉しんできたことに苦しめられる。決して後悔なんかしていなかっただろうけど、犯してきた女たちのように、「逃場のない恐怖」がどれほど怖いか、こんな体になって初めて知る。
自ら池に落ちたのは、こんな体が嫌だったからじゃない、それ以上に、この恐怖に耐えられなかったからだと思う。
久蔵にとってはシゲ子の存在など、赤紙が来る前と同じ、ただ身の回りの世話をする家政婦でしかない。
戦場に行く前の夫婦関係が浮き彫りにされるような、情の通わない二人の姿。
献身的にお世話するんだけどね、シゲ子は。自分の分のご飯もあげて、エプロンの紐を口で引っ張られれば服を脱いで。
でもそれは、今は四肢のない夫であっても、帰ってくればやっぱり今までの「日常」が自動的に戻ってきたというだけのこと。
逆にいじめようと思えば何でも出来る状態なのに、嫌がらせといえば軍服を連れて外に連れ出すくらい、後は一人でのたうち回って苦しんでいる夫を笑うくらいしかない。
それくらい、乾いていた。憎悪すら生まれない。
シゲ子は、フラッシュバックに襲われて地面を転げ回る久蔵が何に苦しんでいるかすら、きっと理解していなかった。
「何が軍人よ」と生卵をぐしゃぐしゃに久蔵の顔になすりつけ、勃起しない夫に苛立って胸を打ち、我に返って「2人で生きていこう」と抱きしめるシゲ子の絶望感が苦しかった。
「戦争」がなかったら、シゲ子はどうなっていたのだろう。相変わらず毎日無理やり体を開かされ、殴られ、老いていったのだろうか。
久蔵は傲慢なまま、異常な性欲を抱えて生き続けたのだろうか。
最後は戦犯として、自ら「お国のために絞首台にぶら下がった」久蔵の哀れさが忘れられない。
ラストに流れる元ちとせの歌がせつないよぅ。
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