「自分より他人を優先して愛する」のは美徳なのか

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昔の話。

気軽に放った言葉なんだけど、聞いた相手はドン引きした例のひとつ。

これねぇ、私のことが「自分大好き人間」に見えたんだろうね。

ちなみに、「他人より自分かよ」と言ったこの男性は、自己肯定感が普段からとても低くて、常に自分のコンプレックスと戦いながら誰かと接する人だった。

こういう人には、臆面もなく「自分が好きだ」と言い切れるような女性は「ナルシスト」なんだろうなぁ。

私は自分が好きだ。

さすがに子どもが生まれてからは息子が一番大切な存在になったけど、それ以前は自分自身が最優先だった。

それはね、決して他人より自分を大切にするってことじゃぁないんだよ。

「他人」という比べる存在を用意して、それより「自分」の方が大事ってことじゃぁない。

私は私であって、それだけで価値があるってこと。

■ 「自分で自分を愛すること」ができれば、孤独に苦しむことはない

これにも書いたんだけどね、「自分で自分を愛することができてこそ、価値のある自分」なんだよね

上の男性には、「他者を優先して愛してこそ、自分は愛される」という思い込みが見えた。

それは、「他人を愛している自分が受け入れられる」ってことなんだよね。

確かに他人に対して思いやりの深い人、情の深い人間は好かれることもあると思う。

でもね。

その考えだと、「他人を愛している姿を見せないと愛されない」っていうことになる。

つまり自分の価値を他人に委ねるということ。

それは怖い。

「誰かを愛さないと誰にも愛されない」自分なんて怖いよ。

私が言いたかったのは、自分を嫌いな人間が、他人を好きになれるはずがないということ。これは持論。

重度のアダルトチルドレンだった私は、昔はとにかく「自分より他人を好きになること」に一生懸命だった。

そうしないと見返りがもらえないから。好きになってもらえないから。

中身がボロボロで傷だらけの自分のまま、それから目をそらしてひたすら相手に好かれることばかり考えていた。尽くして、言うことを聞いて、そうすれば大事にしてもらえると思い込んでいた。

相手のためを思って手を伸ばすことは、実はすべて「愛情」という見返りをもらうため。「自分が生きていくにはそうするしかない」っていう強迫観念に近いものになっていた。

上手くいくはずないんだよねぇ、だって見返りをもらっても幸せになれないんだもん。

受け取るには、「器」が必要になる。

相手の好意、愛情、思いやり、それらをちゃんと受け止めるには、自分の中に相手を受け入れるだけの「器」がないといけない。

それを持てる自分でないと、差し出してくれたものを取り落とす。

自分をなしがしろにしている私に、そんな広くて丈夫な器は用意できなかった。

だから結局、愛してくれた相手の気持ちを踏みにじることになった。どれだけ大事にされても、「もっと愛してよ」と飢えてばかりだった。

だからね。

自分を大事にできない人間、自分を愛せない人間は、他人の愛情も受け止めることが難しくなる。

それを身をもって体験してきた私は、まず不完全な自分を見つめることから始めた。

醜い自我もくだらない欲求も、全部自分なんだと。

それでもいいんだと。

いろいろなことで傷ついて苦しんできた私を私自身が抱きしめてあげたとき、やっと価値のある自分を見つけることができた。

そうなったときに気がついたのが、「良くも悪くも、自分を裏切らないのは自分だけ」という真理。

だったらもう、愛してあげればいいじゃない。

いくつになっても、自分を最期まで愛すことができるのは、自分だけ。

そしてそんな自分でないと、誰かを大切にするなんて無理ったら無理。

自分が好きで何が悪い。

ちなみに。

この男性は自分と同じように自信を持てないような女性が好みだったけれど、今でも独身で過ごしているらしい。

それが良いか悪いかは私が言うことではないけれど、やはり寂しいな、という思いはある。

彼にとっては、今でも「自分より他人を優先して愛する」のは美徳なのだろうか。

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