Twitterでふと見つけて、読んでみた記事。
愚痴を聞く連載、更新です/「家と会社の往復の日々…熱中できるものが何もない」雨宮まみの“穴の底でお待ちしています” 第33回 https://t.co/kmjuMSzcwI@cocoloni_portalさんから
— 雨宮まみ (@mamiamamiya) 2016年3月24日
ライターの雨宮まみ(@mamiamamiya)さんによる「お悩み相談」。
相談者は20代の女性の方なんだけど、「熱中できるものがない」って焦り、わかるなぁ・・・。
周りが華やかに見えれば見えるほど、それと自分を比較してしまって「劣っている」「魅力がない」って思ってしまう。
私も自分に自信が持てずめちゃくちゃな20代を送ってきたけど、同世代で正社員としてバリバリ働いている人や、趣味に没頭してサークル活動なんか楽しんでいる人を見ると、自分との違いによく落ち込んだ。
「本当のストレス発散」になるもの
が。
雨宮さんも仰っているが、そういう人すべてが、「見た目通り」なわけではないことも、知っている。
内心ではその人なりの葛藤や逡巡を抱えながら、また意外と深刻な悩みを抱えたりもしている。
そういう面では、なんら自分と変わりはないんだな、と思う。
熱中できるものがない人間は魅力がないんだろうか。
決してそんなことじゃぁないと思う。
淡々と日々を暮らすことが苦しい時、無理に周りをなぞってみても余計にしんどくなるだけで、やっぱり、自分が普通にストレスなく過ごす中でこそ、「好きなもの」って見つかるものなんじゃないか。
自然に心が惹かれるものでなきゃ、そこにある本当の楽しみを知ることも出来ないし、「熱中」は出来ないだろう。
私には、数年前からはまっている趣味があって、妊娠出産を挟んで1年半お休みしたけど、現在は復帰(?)している。
それは知人が楽しんでいる姿を見て興味を持ち、自分も始めたものだけど、これが自分でも意外なほど好きになってしまった。
体を動かす種類のものなんだけど、これをやっている時、完全に私はバカになっている。
頭を空っぽにして、ひたすら集中している。楽しくて楽しくて、時間なんてあっという間に過ぎるし、そして毎回味わう達成感といったら他で得ることは絶対に出来ないだろうなと思う。
周りから「あの人キモい」と言われることもある。実際に言われたこともある。
反対に、「あなたがいてくれると楽しい」と言われたことも、何度かある。
それでも、周りの声など(決して無視するという意味ではなく)気にならない。迷惑をかけるようなことがあれば当然謝罪するけど、そうでないなら個人の楽しみ方だと思っている。
その時間に集中して没頭して、楽しむ時間がなければ、今の私は立ち行かないだろう。
本物の熱狂というのは、そういう「これでいいんだろうか?」を一瞬忘れさせてくれるもので、大げさな言い方になりますが、人生の虚しさや理不尽さに対し 「それがどうした」と言ってくれるようなものだと私は思います。私はその瞬間が大好きなので、見境なくその瞬間のために、時間もお金も突っ込みます。
本当にそう思う。
私が感じるのは、私の趣味は、「本当のストレス発散」になるということ。
育児のこと、病気のこと、友人たちのこと、将来のこと、日々色々とのしかかってくるストレスに、「それがどうした」と言ってくれるもの。
その瞬間が大好きで、その瞬間を味わうために、行ける時は夫に息子のお世話を頼んで必ず行く。これと家族以外の予定はまず入れない。
その「熱中」こそ、私の日常には欠かせない。
もちろん、家族をないがしろにしてまで楽しむものではないので、行けない時はあっさり諦めて気持ちを切り替えることも必要だけど。
「好きなもの」って、ナチュラルというかフラットなこころの状態でいる時に、ふと思い出して愛おしくなるような、自然と体が動いてしまうような、そういうささやかなプラスの流れが積み重なって、いつか「熱中」に変わっていくのかもしれない。
私のその趣味は、身近な人の話を聞いて、という流れから始まったものだった。意図して行われたものでもない、世間話から発展したことだった。最初はほんとに恐る恐るだったけど、一年経つ頃には「あの人キモい」と言われるくらい楽しめるようになった。
そうやって、自分で選び、続けてきて手に入れたものこそ価値があるんだと思う。
「それがどうした」に出会うために
「焦り」があるのって、良いことなのかもしれない。
現状に満足していればそんなことで悩まない。「変わりたい」と思えば、心が勝手にアンテナ張って「何か」をキャッチしようとするだろう。
逆に、もしかしたら、その焦りを乗り越えてまた現状に満足することが出来るのかもしれない。無理に自分を納得させるとか、変化を諦めるということではなくて、「いま自分はこれでいいんだ」と頷けるかもしれない。
それだって、以前と何も変わっていないわけじゃない、ちゃんと前進しているってこと。
その間は、ただ苦しいだけ、焦りでわけがわからなくなるだけですが、その苦しみや焦りを知らなければ、心を燃やせるもの(もしかしたらとても穏やかな炎かもしれません)が見つかったときに、骨の髄まで染み渡るような喜びを感じることはできないんじゃないでしょうか。
何かを得た時、それを慈しむことが出来る人間でいるために、苦しむ時間だってきっと無駄じゃない。
今日これを読んで、久しぶりに、自分がこの趣味を始めたころのことを思い出した。
きっかけは何処に転がってるかほんま分からんのよなぁ。
ほんで、それがどうなるかも、分からんのよなぁ。
まだまだひょっとしたら私も、これから「熱中出来るもの」に出会えるかもしれない。
その時は、「それがどうした」と言ってくれるものが増えた幸運を、しっかり味わいたい。
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