与えるより与えられたい・・・「臆病」が招く傲慢

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男と女

誰かを好きになっても、あまり情熱的に気持ちを表さない人っている。

それは「好き」という気持ちを自分の中で上手に扱えている人が多くて、見ていると「相手に対して適切な距離を取れている」ことが多い。

決して情が薄いとか恋愛下手とかいうことではなく、内面はとても熱くその人のことを考えているんだけど、自分の気持ちを押し付けたりせず、まず相手のことを考えて行動している。

知り合いにそういう人がいて、素敵だなと思うのは、決して相手の邪魔をしないこと。

その人のお相手はとても仕事が好きな人で、毎日残業して帰りは遅く、休日も勉強用の本を読んだりして、あまり二人で会う時間がないそうだ。
それでも、毎日欠かさずメールをして、少しの空いた時間に食事をして、それだけでも、幸せだと言う。

でも、べったり過ごすことはないんでね?寂しくない?と訊くと、

「だって向こうも頑張ってるし。私も同じように仕事の勉強しゆよ。時間がいっぱいあるってえいことやん」

とからりと笑う。

会えない時間が多いと浮気とか気にならんのかな、と思って尋ねたことがあるんだけど、

「生活のパターンがもう決まってるから、それが崩れたら疑うかもね。今はメールとか電話とかしっかりあるし、特に疑うことはないかな」

と返ってきた。

相手が頑張っていることの邪魔をする、ということが嫌なんだそうだ。
私自身がやりたいことを尊重してもらいたいから、相手のことも尊重する。
相手のことはすごく好きだし一緒にいたいけど、それはお互いが同じ気持ちにならないと無理なこと。
忙しい中で自分との時間をちゃんと考えてくれるのが分かるから、それでいい。

そんなことを聴いていると、休日出勤で家を出て行く夫に

「くそぅ、はよう帰ってきぃよ、息子と二人で寂しく待ちゆうきね」

と嫌味を言いながらお弁当を押し付ける自分がちょっと情けなくなったりする。

・・・思いやりって、大切だよね。

夫は私と息子のために頑張って働いてくれているのに、その気持ちにもっと感謝せないかんな、とその時思った。・・・それ以来出来ているかどうかは謎だが。

上のカップルは、もう何年も付き合っている同じくアラフォーの二人。
ちなみにゲイ。
ちなみに高給取り。

恋人であれ夫婦であれ、「適切な距離」っていうのは、長く続く秘訣なんだと、つくづく思う。

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「与える」ことが嫌な人たち

私の場合、好きになると過剰な関心を寄せてしまうので、闇雲に相手の心の領域に踏みこんでしまう、という失敗を繰り返してきた。

「相手のために」という大義名分を振りかざして、自分を押し付ける。ただの自己満足。

それで離れていかれたこと多数、反省するんだけどなかなかこの「勢い」が抜けない。

相手の思惑に関わらず、まず自分が動いてしまうということ。
それは、自分の気持ちに従っただけで見返りを求めていない場合が多いけど、相手からすれば何をどう返せば良いかも分からず、困惑することが多々あったと思う。

気持ちは嬉しいけど・・・(どうすりゃいいんだ?)というパターン。

大人になって、あぁこうやって距離を縮めすぎるからダメなんだなぁ、と気づくけれど、実際それをコントロールするのって難しい。

反対に、「相手に何か与えてもらってから」という人もいる。

好かれていると分かったから好きになる。
好かれていることに確信を持ってから告白する。

相手の気持ちを知ってから自分の気持ちを決める。
相手の行動を待ってから自分もそれに合わせる。

私とは正反対で、能動的に動くことはまずないが相手の行動には敏感で、「与えてもらう」ことばかり考えている人。

意外と本人は無意識というか気づいていないのかもしれないけど、そういうタイプと付き合うと私みたいな人間はとにかく疲弊する。

私は尽くす一方になり、相手はそれが当たり前になり、どんどん出し惜しみが激しくなり、傲慢になる。

気持ちのバランスが崩れた恋愛はプライドの傷つけ合いになるだけで、最期は必要以上に大きな傷を負い、心も身体もちぎれるような別れになる。
私は一回で懲りた。

「与えることが嫌だ」というのは、イコール「傷つきたくない」ということなのかもしれない。

受け入れてもらえなかったら。
拒絶されたら。

恐らく、そんな過去があるのかもしれない。
私が付き合った相手はそういうトラウマみたいなものを抱えていた。

だから、まず与えてもらうことを欲する。
相手の好意を確信してからじゃないと動けない。

・・・あなたはそれでいいかもしれないけど、相手は?
相手の気持ちは?

自分がそうやって身を固くしている間、相手がどう感じるか、どう思うか、考えたことはある?

逆の立場なら、寂しくない?

何度もそう思った。

「傲慢」と「臆病」は紙一重

ハート

そういう、「与える」ことより「与えられたい」人って、内心は臆病であることが多い。

傷つきたくないから、手を伸ばせない。
傷つくくらいなら、一人でいい。

本当にそう思っている。

そして、いざ、誰かと親しい関係になっても、その臆病さから抜け出すことが出来ない。

相手を信用出来ないから。

摩擦のない人間関係など存在しない。
交わりが生まれれば痛みも生まれる、だから絆は尊いもの。

そこから逃げて、ただ自分を丸ごと好きでいてくれるような都合の良い人間など、存在しないのに。

その臆病が傲慢を招き、相手を傷つける。

でも、自分はその痛みに気づかない。

臆病も傲慢も、周りを見失うから生まれるもの。

相手を尊重出来ないなら、孤独でいるしかない。

・・・ふと、昔の記憶を取り出して、そんなことを考えていた。

 

私は、傲慢になっていないだろうか。

相手を尊重出来ているだろうか。

「与えてもらう」ことばかり考えていないだろうか。

「与える」ことが出来ない人は、何も求めてはいけない。
思いやりは、相手と良い距離を保つために、必要不可欠なもの。

 

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