「好かれたい人」を選べないのは当たり前

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ツイッターなんかをやっているとよくわかるんだけど、人間ってつくづく「好かれたい人は選べないだなぁ」と思う。

私の場合、フォロワーさんが日々増えたり減ったりを繰り返していて、それだけ「好み」が分かれるんだな、と。

身分を隠してアカウントを作れるツイッターは、それこそ好みの凝縮みたいな感じで、好きと嫌いがはっきりする場。「この人いいかも」と軽い気持ちでフォローしてみたけど、つぶやきがたいしたことなかったり気に障ったりするとすぐにリムーブ(フォロー解除)。それでいいと思う。

自分のタイムラインは誰だって楽しいものでありたいと思うはず。

私が悲しいと思う瞬間は、フォローしてくださって嬉しいなと思っていた人にリムーブされたとき。

「あ……」

と思わず声に出るくらいショックを受ける。

そうかミュートする気にもならなかったんだな、と思うとそらもう落ち込む(いや滅多にないけどね)。

でも、人の嗜好ってそういうもので、こんな場にまで「義理」みたいな感情を持ち込むのも違うよなぁ、とも思う。

合わないと思えばさっさと離れてもいいんだよ。私だってもういいかと思った人はフォローを切る。

その「軽さ」こそ、たぶんSNSを楽しむためには必要なんじゃないかと。

リプを返して会話なんかしてしまうと、どうしてもフォローしている人たちに対する均一な感情からその人が少し抜きん出る。

それも楽しいけれど、だからといって常にその人の発言に絡まないといけないわけじゃないし、いいねを送らないといけないわけでもない。

適度な距離感っていうのを掴めないと疲弊するよね。自分はいいねを押すのに相手からは一向にもらえなかったりするとちょっと心がざわざわすることもあって、このストレスが本当に苦手だった。

今年に入ってから、「手放しても良いもの」「諦めても良いもの」をいろいろと考えていて、とにかく関心の向く人間には常に心が没頭しがちな私は、ツイッターではフォローしている人に深く関わるのを止めた。

つぶやきに心はもちろん反応するんだけど、本当に返したいと思ったときしかリプはしない。やみくもに会話しない。これだけでもだいぶ気持ちが楽になった。

ただタイムラインを眺めるだけの時間が増えて、それはそれで落ち着いた感情で過ごせるので好きだ。

構えず気楽に話せる人もおるけどね、そういう人にはブログの感想なんか伝えて楽しく話している。

それくらいでいい。

私が避けたいのは、「好かれたい」下心からつぶやくこと。

「こんなこと書いたら受けるかな」とか「いいねが付くかな」みたいな気持ちは必ず言葉に滲む。無理に「かっこいいこと」をつぶやいても、そのときはフォロワーが増えてもいずれ離れていく。一貫性がないから。

取り繕った自分ってね、見透かされるんだよ。それに疲れる。

好かれたい人は選べない。

自分の何がどう他人に響くかなんてわからない。それは自分で用意できない。「こんな私を好きになってね」なんて思っても、意図した通りに伝わる可能性なんてほとんどないのが現実。

むしろ逆だ。「作っていないとき」にこそ人間性が出るだろ。

アラフィフの男友達と食事に行くからって、恥をかかせないようにとまともな服を着てメイクをしても、突然家に来てどすっぴんで部屋着姿の私のほうが「素で好き」なんて言われてみろ、がっかりするやで。いやちょっと違うか。

着飾ってすました顔でご飯を食べる私より、ノーメイクで口開けて笑っている私のほうが好き、という人がいるのも現実。

そんなもんだろう。それでいい。

だから、ツイッターのように本名も肩書を知られずに存在を出せる場は、無理をして「良い自分」を見せるより「そのままの自分」でいるほうが自然だ。

一貫性があること。こちらが大事。

キャラが二転三転するのも面白いんだろうけどね、ギャップ萌えなんていつか飽きられる。

それより、「この人はいつもこんな感じ」っていう安心感のほうが受け入れられる。タイムラインに違和感を覚えずに済む。

つぶやく内容は考えています。思ったままを口にするんじゃなくて、なるべく自分が意図した方向に受け止めてもらえるような言葉を選ぶ。

「そのままの自分」は「好き勝手につぶやくこと」ではないからね。

つぶやきを目にする人がいる以上、絶対に言葉は考えないといけないと思っています。

あぁ、でも。

「好かれたい人は選べない」って面白いよなぁ。

「この人に気に入られたい」と思っても、相手の感情をコントロールすることが不可能な以上、自分にできるのは素直でいることだけ。

こう思われたい、なんて画策は、時間が経てば経つほど維持が難しくなる。だから結局、素の自分を見せるのが一番手っ取り早いと思う。

カッコつけるのって好きだけどね、楽しいよね。でも続かないんだよね。

それより怖いのは、勘違いされること。下手に駆け引きなんかして「こんな人なんだ」なんておかしな方向に認識されると、いずれ敬遠される。自分が損をするんだよ。

相手の感情は決められない。好かれたい人は選べない。

それなら、自分が取れる最善の道は、偽らず心を見せ続けることなんだと。

それが信頼を築いていくんだと。

自然と心は近づいていくのだと。

先日どなたかのつぶやきで見かけた、

「ひょっとしたらこの人に好かれているのかも、と感じるとき、相手は自分が思う以上に自分を愛してくれている」

って言葉を手帳に書きながら考えていた。

 

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