「過去」を共有した男の記憶って、時間が経てば風化していくものと、なお鮮明に心に蘇るものと、共有した過去の深さによって変わってくるのかもしれない。
例えばどこかで会ったところで会話することもない、一瞬思い出してもすぐに消えるような存在と、目が合った瞬間に「当時」に戻されるような感覚に襲われる人。
これは、共有した過去が深ければ深いほど、双方が同じ感覚を持つんだと思う。
深い、というのは情であって。
たくさん傷ついて、それでも何度も向き合って、やっぱりダメで、最後はどんな終わりだったかも思い出せないようなドロドロで。
そんな恋愛ほど、年月に負けないでかい塊を心に残す。
今さら関係が復活させる気も起こらない、だからと言って他人のふりも出来ない、なんとも中途半端な存在。
それでも、やっぱり惹かれ合うものがある。
それはもう、言葉で語れるものではなくて、文字通り皮膚の感覚で、無視出来ないもの。
いずれ言葉を交わすようになって。
いずれ新しい連絡先を交換するようになって。
いずれ連絡を取り合うようになって。
いずれ言い訳を作って会うようになって。
ここまでは、やっぱり進んでしまうんだと思う。
何を望んでいるかすら自覚していないような、曖昧な関係と言葉というのは、相手の心を探るような下心を知らない間に隠し持つ。
私に関心はあるか。この一点のみにおいて、その下心は敏感に相手の反応を窺う。
例えば、結婚しているとか彼女がいるとか、相手の状況が変わっていれば。
自分も結婚しているとか彼氏がいるとか、昔と違っていれば。
そこで終わるのだろうか。あぁもう私に興味はないのかな、と。
そうじゃない。
例えばパートナーがいてもなお、相手の心の中に自分の存在を探してしまう。
自分だけが居座ることの出来るスペースが、必ずあるはずだと、そこをこじ開けようとする。
それは、あれほどの感情を共有して、死にたくなるくらい恥ずかしいような姿もお互い晒していて、絶対に忘れるはずがない、といううぬぼれ。
そしてたいていはやっぱり見つけてしまう。
ほらね、私がいた、ここに。
心と体が密接に繋がって相手を想う恋愛は、気持ちという目に見えないものだけではなく、肉体という確かめることが出来るものに執着する。
慣れた体。
肩の厚みや、唇の感触や、節の太い指、肩甲骨の影。
そういう、過去に何度も触れてきたものを目の前にした時。
不可抗力を知る。
抗えないのは肉体ではなく本当は心の方なんだけど、「理性」とか「自制」とかそういうものが入り込む隙間がないほど、ただ「触れたい」と思う。
それは、性欲以前の、触れることで満足出来ていた、あの純粋に人の愛情に包まれていると感じた、喜び。
恋愛ではない。未練でもない。
文字通り理屈じゃない何かが、同じ分量で二人の間を繋いでくれる。
慣れた体。
それは、過去を共有した者同士でしか知りえない贅沢な味わいがある。
頬を預ける位置も同じ、回される腕の力強さも同じ。
違和感なく消える隙間。
心に湧く熱も同じであると、黙っていてもたぶん伝わるだろう。
安堵。
お互いの中に、変わらない部分を見つけて、そこに存在する自分を見つけて、それはただの愛情ではなくもっと複雑な意味合いを持って、その瞬間自分たちを支配する。
触れることが出来ればいい。
満足するのは、心の中の、不在を嘆いていた自分なのかもしれない。
「昔の男」が大きく自分の中に居座ることは、好きじゃない。
現在進行形でない恋愛など、自分で手をかけて育てることの出来ない想いなど、楽しくも幸せでもないからだ。
それでも。
求めている、という事実から、目をそらせない。
どうにかしたいとか、何かを望むとか、具体的なものは何も手にしないかもしれないけど。
ただ、お互いに求めている、という目の前の事実だけ、今は扱っていたい。
「昔の男」の「慣れた体」。
きっと相手も、自分と同じようにためらいのない目で、邂逅を楽しんでいるんだと思いたい。
*・・・・・妄想です。
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