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先日劣等感が強い人ほど、「愛してくれそうにない人」を好きになる現実って記事を書いたんだけど、読んでくれた友人が

「当たり前のことを書いてるよね。

みんなわかってるんじゃないの?」

と感想をくれた。

わざわざ文章にする必要があるのか、と言いたいのかもしれないけど、劣等感の強い人が抱える葛藤がどれほど深いかを目の当たりにしたことがなければ、その「当たり前のこと」がいかに難しいか、わからないだろうなと思った。

私の書いたものを「みんなわかっている」と言い切れるのは、とても幸せなことなのだ。
自分を好きになる、こんな陳腐な言葉に辟易する感覚は、「できる人」にとってこそ当たり前だからだ。

でも、それができない、わからない人は本当に多い。

劣等感の強い人ほど「自分を認めているフリ」をする。

「受け入れてもらえない自分」ばかり実感していると、他人と接するときにそれが見破られないように取り繕う。

それを人が知ればどう思われるのか自分の評価が気になって仕方ないから、「そんな自分、まったく気にしていません」と平気な自分を装う。

「人と対等に接することができる自分」
「人と楽しくコミュニケーションがとれる自分」

を作り出すのだ。

劣等感を刺激される場面ほど、落ち込むものはない。

人から相手にされない、愛されない自分を見るとき、凄まじい痛みで心が潰れる。

だから逃げる。

一人のときは、人と付き合えない自分への虚しさも、現実の厳しさも、頭に浮かぶ。

でも、他人と向き合うときは、全力でその自分から目をそらす。

だが、こういう人が失うのは何より自分を好きだという基本で、「見ないフリ」をすればするほど、本音がわからなくなるのだ。

自分の感情、「どうありたいか」が実感できない。

相手に対しての「好き」をまっとうに掴めなくなる。
素直になれない自分で相手と向き合っても、何も受け取れないし、また与えることもできない。

抽象的な話になるけど、「常に自分の本音がわからない状態」で他人と接するので、相手の様子を正しく見ることができず、その前に自分の言動が「空気を読めない」「相手の気持ちを考えられない」ものになる。

そしてそれ自体に気が付かない。

実際に、好きな女性が自分の好みを考えて「とんかつが美味しいから」と連れていってくれたお店で、「そのとき自分が食べたいと思った魚のフライ定食を注文した」なんて場面を迎えても、本人はなんとも思わないのだ。

そんな話を平気で他人にできるのだ。
「うわー、それってマジで空気の読めない奴じゃん」とこちらは思うけれど、本人は違和感を覚えていない。

「尊重される自分」を安定して受け止められる心の状態じゃないから、好きなはずなのに相手の配慮が見えず、関係をダメにしていく選択を繰り返す。

過去形であっても好きだと言ってくれる女性を目の前にして、自分の今の片思いについて延々と語ることができるのもこういう人で、つらい気持ちを抱えて辛抱強く話に付き合っている女性の痛みなど、簡単に無視できるのだ。

自分の感情が、本音が、わからないから。
「どうありたいか」から目をそらすから。
相手の状態を受け止めることも、自分の本音を見ることも、すべてが劣等感を刺激する。
頭と心はすぐに混乱し、自分も相手も尊重できない。

素直になることがどれほどのエネルギーを使うか、疲れるし「自分の望む結果じゃなかったらつらいから」とむき出しの心で向き合うことを避け、余計に「愛されない自分」になる。

その一方で、自分の好意を拒否されることには極端に敏感になるので、積極的に思いを伝える行動はできないし、「まず相手の状態を見て、それに合わせて決める」ことを当たり前にする。

自分の感情の動きを無視して、「相手にとっての自分の状態」を見てから「こうしよう」と決め、そんな場面を繰り返せばどんどん本音がわからなくなるのは当たり前なのだ。

自分を認めているフリをやめれば、素直になれば、過ごす世界は一変する。

自分の世界は自分の心が作る。

「愛されない現実」は紛れもなく自分が引き寄せているのであって、愛されたければそうなる心の器が必須なのだ。

私は長い期間、自己欺瞞から抜け出せずに現実を破綻させた。

「連れて歩くのが恥ずかしい」と私に向かって吐く男と、「飾らないところがあなたの魅力だと思う」と言ってくれる男性がいて、どちらが正解かにこだわり、どちらを受け入れるかって視点をなくしていた。

素直になれば、私の魅力を素朴に伝えてくれる人に向かって「ありがとう」と笑顔で返せるのだ。
「そんなはずがない」ではなく。

鏡に映る自分から目をそらして「見なくても大丈夫」ではない、「見ても大丈夫と思える」ことこそ、自愛だ。

自分を認めるフリをやめれば、人の好意も、自分の気持ちも、正面から受け止められる。

本音を見ようとすれば、避けたいのはなぜだったのか、そんな自分が相手にどんな印象を与えていたかを知り、そんな自分がつらくてももう過去で、「次からは絶対にしない」と思えるのだ。

自分との対話。
自分を正しく観ること。

「自分は愛されない」のではない、「愛されない自分を作っていただけ」がシンプルな真実なのだ。

何度でもやり直せる、と言い切るためには、「私だから」という自信が必要になる。

それを与えてくれるのは他人ではない、他者は手を差し伸べてくれる存在だけど自分を形作るものではない。

「認めるべき自分」は「人に愛される」ではなくて、まず「こんな自分でも好きだ」と思える心。

解いていけば簡単で、弱いしみっともないし恥ずかしいし苦しいし、”でも”その自分でいい、と許してあげるだけだ。

自分の世界は自分の心が作る。

どれだけ抽象的で「みんなわかっていること」でも、愛情の証を他人に求める前に求める自分を認めてあげないと、返してくれる相手の思いも受け止められない。

コミュニケーションをとるってそういうことで、いい関係を築きたいならどうしたってまず自分を好きにならないといけない。

素直に相手を受け入れる気持ちが自信になる。

「私は大丈夫」と思うために、まず「自分を認めるフリ」からやめていきたいな、と。

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