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恋人ができたことがない。
片思いはするけど、成就したことがない。
異性から好きだと言われたことがない。

こんな人は決して珍しくなく、恋愛で失敗ばかりを経験していれば、「異性とまともに付き合えない自分」へのコンプレックスが大きくなるのは仕方ない。

前向きに関わりたい気持ちは、ちゃんとある。
だけど、傷を恐れる気持ちから小さなアプローチしかできず、相手から与えられる好意の証をじっと待ち、自分からは告白しない。
つながりの方向を変えるような思い切った行動を考えたときも、過去の「拒絶された自分」がそれを止める。

失敗したくない。
惨めな思いをしたくない。

恥をかくのを恐れるし、それ以上に「拒絶される自分」を避けたくなる。

誰だってそうだろう。

そこで自分が抱える愛情に従って相手を求めるか、相手が自分を求めてくれるのを待つか、自信があるかないかが出る。

「自信」って、好かれているってことじゃなくてさ。
”あなたを好きな自分”を堂々と見せることで。
愛情を伝える勇気のことで。

劣等感の深い人は、まずここまで来ることが難しいのを見ていて感じる。

先日の「サービス業の人を好きになる難しさ」でも書いたけど、誰かと付き合いたいって自然な欲が、「そうなれる可能性のある人」として最初から自分を受け入れてくれる状態での恋愛を求める。

サービス業や接客業のように、「自分の相手をするのが当たり前」の異性を好きになるのだ。

愛されたい、求められたい気持ちが、劣等感を刺激しない立場の人を無意識に選ぶんだろうね。

このケースの場合、以前も同じようにサービス業の女性を好きになり振られていて、「好意を持たれていると思ったのは自分の勘違いだった」恋愛を経験しても、それでも、次に好きになるのはやっぱり「対等になれない人」だった。

「愛してくれそうにない人」にばかり執着してしまうのだ。

「こんな自分」の劣等感が根深くなると、女性が向けてくれる好意(と感じるもの)に全力ですがるのは理解できる。

少しの振る舞い、ささいな一言、それらに全神経を集中させ、「愛されている証」を欲しがるだろう。

一方で、やんわりと牽制されてもそういう「サイン」がわからない、直感ではそうなのだと感じてもそれを否定して好かれていると信じる。

「利害関係を超えて自分を受け入れてくれている」とどうしても思いたい。

その気持ちは痛いほどわかる。
人を好きになるってそういうことだ。

劣等感の強い人は、「異性に拒絶される自分」を猛烈に避ける一方で、「異性に関心を持たれる自分」を肚の底から渇望する。

「愛されたい」
「好かれる自分を見たい」
「異性と居心地のいい関係を持ちたい」

誰もが普通に抱えるこの欲が、恋愛経験のない人、好かれたことのない人にはとてつもなく大きな力になるのは、たくさん見てきた。

だから選ぶのはサービス業のような「誰にでも笑顔を向ける女性」「楽しく会話してくれる女性」になる。

この男性については、以前に数回「サービス業の人じゃなくて、自分と同じ一般人を好きになるほうがいい」と言ったことがある。

その意味を男性が理解しているかはわからないけれど、それでも、知り合うのがそういう「対等になれない女性」ばかりになれば、好きになるのも仕方ないのかもなあ、と。

恋心は理屈じゃないからね。

 

「愛してくれそうにない人」ばかり選ぶのは、抱えるコンプレックスが現実を見せないから。

対等な目線で話せる異性というのが自分にとってどれほど遠い存在か、身をもって知っているから、無意識に利害や上下のある関係のなかで人を好きになる。

この男性の場合は、親しくなりかけている女性にはいきなり攻撃的になるような不安定さが目立った。

その相手は「一般人」で、敬語や丁寧語で話す必要がない上に付き合っても問題になる要素はなく、むしろ交際のハードルは低いはずなのに、こういったサービス業の女性と向き合うときよりずっと関係を維持するのが難しかった。

常に「好かれている」「関心を持たれている」と示してもらわないとダメなのだ。

「愛情以外で自分を気にかけてもらう理由がない」状態が不安の源になる。

相手とは対等だからこそ、「ありのままの自分」で向き合う勇気を持てないのだ。

サービス業の女性なら、自分に関わる理由が明確にある。
そこに安堵を見出し、「相手からは切れないつながり」に恋愛を持ち込む。

サービス業の女性を好きになっているときは、その人と衝突や対立する場面は一度も起こらず、喧嘩もなく、常に心理的な距離のある状態で関係を続けられるのは見ていた。

尊重される自分を見せてくれるのが当たり前になれば、そこに甘んじていられるからだ。

難しい恋愛ばかりを選んでしまうのは仕方ない。

それなら、「その関係のなかでどうすれば相手と居心地のいい状態になれるか」を考え抜く胆力が必須になる。

 

この男性に私が伝えたいのは、本当は”成就の方法”ではなくひたすら「コミュニケーションを楽しんでほしい」だった。

人を好きになるのは幸せなことだ。
誰かを受け入れるエネルギーがある人は、他人とポジティブな関係を必ず築けるはずなのだ。

相手と対等な立場でなくても、気にかけてもらえるのは自分には「人としていい部分」があるということだ。

相手にとって価値があるということだ。

そこだけは、どんなつながりであっても関係を続けるために不可欠な要素のはずだ。

それなら、お互いのいい部分を認めあって楽しい感情のやり取りをするのが、心の距離を近づける最善の道になる。

好きな人と対話すること、笑いあうこと。
思いを共有すること。
そういう瞬間の連続で愛情は育つ。

「されたこと」に愛情の証を探すのではなく、まずは自分自身が「その人を好きな自分」を受け入れて慈しむことが、成就には欠かせないと私は思う。

コミュニケーションを楽しめることが自信になる。

失敗は恥じゃないし、何度でもやり直せるのが現実なのだ。

そのエネルギーを持つために、何より「今の自分を愛する」ことが欠かせない。

相手を愛すると同時に、どうかそんな自分も大切にしてほしいな、と。

劣等感は消えない。乗り越えるのも時間がかかる。

なかにはそんな気持ちすら見ないフリをして「自分は大丈夫」と思いこむ人もいる。
失敗続きの恋愛の理由を相手のせいにして、自分の弱さを正当化する人だ。
だが、そんな人がまともに他人と対等なつながりを持てるはずがなく、他人から尊重されるはずがなく、結局は疎遠にされて終わるのだ。
そんなケースもたくさん見てきた。

人に愛されたければ、まずは自分を愛さなければならない。

それが劣等感の深い人には最大の課題であって、少しずつでいいから、いろんな感情のやり取りを楽しめる自分を愛してほしいと思う。

共依存のように「愛情の証明」を押し付け合うのではなく、お互いの心が自立していて支えあえるような関係が、私が考える「幸せな恋愛」だ。

劣等感の深い人は、「自分が望む愛情の形」「先に愛情を示されること」にこだわる。

そこを満たしてもらわないと不安ですぐキャパオーバーになる。わかるよ。

だから、「愛情以外で自分を気にかけてもらう理由がない」状態でも心を安定させるには、好かれている自分ではなく「相手を愛している自分」に安寧を求めるのが健全だ。

自分はこの人が好きだ。

シンプルなその思いに身を委ねられるようになれば、「異性に愛されない劣等感」は消えていく。
愛することに相手の思惑は関係ないからだ。

人を愛するって、本来そういう自然な状態だよね、と。

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