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例えば、「連絡をくれるだろう」「会いたいと電話があるだろう」「ご飯に誘われるはず」と思っていたのに、それが叶わなかったとき、好かれているか不安になって相手の気持ちを試すような行動を起こす人がいる。

「こうすれば相手はショックを受けるだろう」
「傷つけたことに気づいてくれるはず」
「連絡がくるだろうから待っていよう」
「会ったら思いっきり怒りをぶつけてやろう」
「私(俺)は被害者なんだから」
「感情を我慢する必要はない」
「怒りを抑えなくてもいい」
「相手が悪いんだから、私(俺)に罵られても仕方ない」
「私(俺)は正しい」

こうやって自分の世界でぐるぐると都合のいい展開を想像し、実際にやってみたけれど相手からはいっさい音沙汰がなくて焦る。

連絡もなければ会いに来ることもない、慌ててFacebookなどSNSのアカウントをチェックするけれど、自分に言及しているものは見当たらない。

「あれ?」
「無視されてる?」

「……」

「……」

このときの焦燥感って、目論見が外れたことより

「相手にされない自分」

を目の当たりにするからショックだよな。

やっと「やらかした」って気がつくけれど、もう遅い。

頭が冷えてみれば自己陶酔もいいところ、実際には何もされていないのに「可哀想な自分」をみずからアピールしていて、LINEでも留守番電話でも自分が残した痕跡を思い出すと顔が真っ赤になる。

こうしてみずから恥をかく。恥をかく結果を思いつかない。

「相手はこうするだろう」なんて予想をたてて行動を起こすのって、不毛なんだよ。

自分に置き換えてみればわかると思うけど、「明らかにこちらのアクションを狙ってやっている」とわかる相手に、わざわざ向き合うのかい、と。

愛情を証明しろ、とこちらの事情を無視して押し付けてくるその人にエネルギーを割くのかい、と。

こういう「やらかし」をする人の様子を見ていると、たいてい自分に自信がなくて周りの目を異常に気にする。
自分がどう思われているか、嫌われていないか、陰口を叩かれていないか、「ダメな人」と思われることを恐れる。
だから正面から人と向き合う勇気がなく、安全地帯から小石を投げるやり方で相手の気持ちを引っ張る方法しか思いつかない。

「あなたに傷つけられました」と相手にとっては見当違いなことを突然持ち出しては敬遠されて終わるのだ。

これ、「自分は間違っていない」って思い込みがすごいんだよね。
すべて想像でしかない、直接相手に確かめたわけでもないのに、”これって自分のことかも”と不安をかき立てられる事柄があると敏感に反応して

「私(俺)は被害者だ」
「悪いのは相手だ」

自分の世界で白黒をつける

で、それを現実の世界に持ち出して赤っ恥をかく。

「やらかした」自覚ほど、恥ずかしいものはない。

すがってくるはずと思っていた相手にスルーされることほど、惨めなものはない。

ここまで感じてやっと、「また間違えた」自分に思い当たり、次に絶望から逃れるためにじたばたと他人を巻き込んで暴走し、拒絶され、「誰からも愛されない自分」を確立させる。

自分の想像通りでない現実の世界。
その恐ろしさは、「きっと相手が追いかけてきてくれて、愛していると言われるハッピーエンド」がすべて妄想だったという地獄と同じだ。

つらいなぁ、と思う。

相手のなかに自分の価値を置いてしまうからこそ、「どう思われるか」の視点を失って自分の世界でしか関係を見ることができない。

自分は無価値だから。

この人に愛されないと、安心できないから。

この人は私(俺)を愛する義務がある。

自分の世界のなかで、相手は常ににこにこと上機嫌で手を伸ばしてくれていて、自分が何をしようと理解してくれるし許してくれる。
「こうでしかいられない」自分をわかってくれる。
傷つけても間違っても、愛してくれる。

自分は常に愛される”べき”人間で、その安心感を与えてくれるのが相手の「役目であり義務」なのだ。

だから、平気でこういうやらかしができる。

自分の世界でしか相手との関係を見ることができない人は、

「自分の期待通りに存在しない相手」

を認めない。

「その人がいないと自分の世界が完成しない」からだ。

愛してくれる義務を負うその人がいてこそ、自分の安寧は守られる。

だから、不穏な気配は自分の世界を脅かすことであり、小さな違和感でも見過ごせず不安を抱える。

不安は相手のせい。ありのままで過ごしている自分に非はなく、「許可なく世界を変えようとする相手」が許せない。

愛されたい。
愛されたい。

「愛される自分」を実感したい。

頭にあるのはこれだけ。

大きな依存であって、誰も幸せになれないよね。

でも、実際にこういう人は多くて、40代になっても「やらかし」を続けては「彼女いない歴=年齢」を更新させている人も珍しくない。

で、こういう人たちはまた、やらかす瞬間は「これが真実」でもあるんだよね。

「私(俺)がこうするのは相手のせい」

を信じて疑わないので、相手も自分の考えをそのまま受け止めることを一方的に求めるし、そこから外れたものはすべて「不正解」になる。

「愛されたい」が「愛を感じさせてくれない相手が悪い」になり、自分の世界だから”私(俺)の感情こそ正義”になるのだ。

現実ではわざわざお互いの不快感を増すだけのアクションなのに、「そうしないと気がすまない」のが最大の弱さだな、と思う。

これね、「相手はきちんと受け止めてくれるだろう」って甘えがないとできないんだよ。

「何があったのか説明してください」「誤解を解いてください」「私(俺)を安心させてください」という願望がなければ、わざわざ”傷ついた自分”を相手に見せようとは思わないんだよ。

必死に「そんなつもりはない。そう思ったからやっただけ」を通そうとするだろうけど、だからその「そう思ったからやっただけ」にこそ、執着と依存があらわれている。

こっちにしてみればただの押し付けなんだけどね。

やっている側はつらさから逃げ出したくて必死、でも追いかけて愛情を証明してもらわないと報われないから、勝手に「罪」を作り上げる。それが相手にとって終わりの決定打になる現実を想像できずに。

どこまでも、自分の世界でないと相手と関われない。

本当に安心や安堵がほしいなら、”そこ”から出てきて現実で相手と向き合わない限りかなわないんだってことを、どうやって知ればいいのだろう。

恐れている「自分は無価値だと思い知らされる現実」は、誰もが等しく同じ状態で立っている場所で、愛されない不安も拒絶される恐怖もお互いさまで、つらいことも悲しいことも”ともに”乗り越えることができるのだと、それが健全なあり方なんだと、いつになったらわかるのだろうか。

試し行為もネガティブな押しつけも、自分の首をしめるだけなのだ。

それに付き合う義務は誰も負わないのが現実なのだ。

自分だって、相手がそうなったら背中を向けるだろうくせに、責めるだろうに、「私(俺)は許される」なんてことは、決してないのだ。

この依存に気が付かない限り、一番求めている「愛される自分」は手に入らない。

死ぬほど渇望している愛情は、”自分の世界”でこそ決して手に入らないのだと、「やらかす」人は気づいてほしいと思う。

人は鏡だからね、愛されたいなら愛することが先。

人を愛すると間違えるから。
失敗したら責められるから。
正しい振る舞いがわからないから。
相手が何とかしてくれるはずだから。
従うのが愛情だから。
応えることこそ証明だから。

これらはすべて、「思い込み」であり「真実」ではない。

愛することを「世界を失う」と同意にするから負の背景から抜け出せないのさ。

大丈夫、愛する心こそ自分に価値を持てるきっかけなんだよ、と。

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