ある男性の話。
短気、といえるのかもしれないが、相手との会話で気に入らないことがあるとすぐにキレる性格で、先日は私ののろけ話で気分を害したらしく
「お腹いっぱいだわ」
「げっぷが出るわ」
などさんざん悪態をついたあと、私が謝らなかったせいか怒りがピークに達したようで突然叫びだした。
「俺はモラハラやパワハラを受けている」
「あんたなんか大っ嫌いだ。大っ嫌いだ」
「怒りを我慢しないといけないのか」
「感情を抑えないといけないのか」
と大声で怒鳴り散らされるのはもう何度も体験しているのだが、慣れているせいか私のほうは胸の痛みを堪えながら冷静に聞いていた。
この男性の特性は、
「一度キレないと本音が言えない」
ことと
「こうしてキレ回ったあとでも数日後にこちらから連絡すれば機嫌よく相手をする」
ことで、最初はでかい矛盾だなと思ったが「キレたことで心を開放でき、それでこちらを受け入れる」のだろうかなどと思っていた。
問題は、私は何年もこの不毛な会話に耐えているのだが彼がそれに甘えていることで、落ち着いているときに何度話し合っても一向に改善されることはなく、当然ながら年々交流は減っていた。
今回、私から連絡したのはある相談を受けていてその男性が彼の思考と似ていたため意見が欲しかったからで、気軽に連絡したのだがその結果がまたこうなってしまい、頭を抱えてしまった。
が、いつもと違ったのは、この数分前に彼は
「好きな女性がいて、その人のために変わりたい」
と口にしていたことで、自分を罵倒する言葉を聞き流しながら、おぞましい感覚に襲われて体が震えた。
人付き合いが苦手で40を過ぎても親しい人がおらず、彼女ができたこともない彼が、変化を求めているのは良いことだと思った。
だが、その同じ口で、同じ心で、目の前の相手を「気に入らない」という理由で罵ることができるのは何故なんだ。
イライラしながら「むかつくからもう切ってもいい?」などと言える人間が、好きな女性のためにどう変わろうというのだ。
さすがに、嫌悪感が沸いた。
気持ち悪い。
おぞましい。
怒鳴り散らしながら「俺はモラハラやパワハラを受けている」と被害者ぶるその矛盾はいつものことだが、そんな自分が他人に好かれる可能性があると思うのだろうか。
のろけ話が気に入らないのなら、どうして止めなかったのか。
キレるほど怒りを溜めるのはどうしてなのか。
どうして、目の前の人間に心を開けないまま会話を続けようとするのか。
彼には、親しいと呼べる人間は私しかいない。だから甘えも依存もあり、常に「私が自分に関心を向けているかどうか」で自分の気持ちを決めるのが常なのだが(だから私は距離を取って慎重に接するのだが)、嫌な話題ならそう言ってくれればやめるのに、「うんうん」「それでいいんじゃない?」と普通に聞いていていきなり怒りを持ち出すのだからたまらない。
「私が自分の思い通りじゃないとキレる」その未熟さに依存の深さが表れていて、正直恐ろしいなとも思った。
で、私を罵倒しながら「好きな人と仲良くなりたいんだ」と言える精神がおぞましく、その嫌悪感と気持ち悪さが「これ以上は無理」という私のラインを超えた。
寒気を覚えながら、私はあえぐように
「もう他人になりたい」
と言った。
彼はいつも通り、ふてくされた口調で
「はいはい。もう他人ね。わかりました」
と投げやりに返した。
この程度のものなのだ。
怒りに支配され、自分の態度や言葉が目の前の相手にどう届くか、相手がどう受け止めるかが想像できず、大事なものをいとも簡単に手放す。
何度か繰り返して知っているが、彼にとってその選択は自分で決めたのではない。
「あなたがこうだったから俺はこうしたんだ」が彼の正論であり、
「自分で決めたのではなく、決めさせられた現実」
というのが彼の了見になっている。
あくまでも自分は被害者であり、キレ回って罵倒する態度は「あなたがそうさせたから」となる(実際に言われたことがある)。
自分の前に立つ人間は自分と切り離された他人という意識はない。「自分を認め、受け入れてくれることが前提」でしか、彼は人と関われない。
気軽に食事に誘える友人もいなければ、この年まで彼女ができたこともなく、片想いはすべて振られて終わっているのは、そういう人間性が原因なのだろうな、と見ていて思う。が、それを伝えても彼は何も変わらなかった。
恋愛については、昔「負け戦はしないんだ」とドヤ顔で口にしていたが、これも「先に愛情を見せてくれた相手にしか関わらない自分」を正当化しているのがわかる。
そして、現実では負け戦しか経験していないのだ。
自分と近しい位置にいる人間に対して、平気で尊厳を踏みにじるような発言ができるのは、ただの甘えである。
「こんな自分でも許される」と思っていないと、とてもじゃないが「大嫌いだ」とは言えない。
自分には相手を傷つける権利がある、相手は自分を許さないといけない。その甘えが、良好で健全な人間関係を築くことを遠ざける。
それに気がつかない。
私の中に生まれた嫌悪感とおぞましさは、しばらく心に居座って苦しい時間を過ごした。
こんな彼でもなんとか交流を続けていたのは、私自身も彼に依存している部分があり、「痛めつけられる自分」を許していたからに他ならない。
罵倒されることが悲しくないはずがない。心臓は重たい動悸を打って呼吸は浅くなるし、頭は痛くなる。「また拒絶された自分」を実感することになる。
それでも、この関係を続けることを選んできたのは私であり、罵られる自分を受け入れてきた。
そのツケが、この気持ち悪さなのだろうと。
人を遠ざけるのは悲しい。今まで過ごしてきた時間が無になることを知るのは寂しい。それでも、続けることを選び続ける限り、私は私をないがしろにする。
だから、この嘔吐をこらえるようなおぞましさも、結局私が自分で引き起こしたのだ。
恋愛感情を持ったことはないが(私が独身であっても持てるはずがなく)、仲良くできればなと思っていた人だった。
だが、この共依存は、どちらかが関係をやめることでしか終わらない。
それを実感した。
この選択は間違っていない。それだけは確信している。
彼の面影を心から引っ剥がす虚無な時間にこれからうんざりするのだろうが、私の周囲でただ一人の「私を罵倒する人間」は必要ないのだ。
これが私の現実。
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